りんごがでている

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[idea] ものごとに名前を付けると、中身は隠される

市民ら約300人が参加。二井関成知事が基調講演し、「04年に阿東町(現・山口市阿東町)で79年ぶりに鳥インフルエンザが発生した際、トップの決断の重要性を痛感した。近年はゲリラ豪雨も増えており、自助、公助、共助を組み合わせた防災文化を日ごろから定着させることが大切だ」と話した。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20111127-00000114-mailo-l35

ふ〜ん、「トップ」の「決断力」は大事だし、最近は「ゲリラ豪雨」も増えてるから、「自助」「公助」「共助」を取り入れて「防災文化」を定着させることが大切なのか。

で、「ゲリラ豪雨」って何よ?

普通の人の認識では「ゲリラ豪雨」って、夏とかの夕方に降ってくる突然の強い雨って感じで特にどんな現象か詳しく知りたいとは思わない。上の文でかぎかっこ「」に入れた単語を詳しく正しく説明できる人は多分いないんじゃないかな。普段文章を読むときに一つひとつの単語はほとんど気にしないし、気にしていたらいつまで経っても文章が読めない。気にして読むと中学生とか高校生の英語の勉強みたいに辞書を片手に一行一行こまめに読んでいかないといけない。

でもマスコミに流布する新語や造語の類をそのまま流し読みしてしまうのはちょっとまずくないか?

例えば一昔前から今まで話題になっている英語の「公用語」化の議論、「公用語」なんて日本人には馴染みの薄い言葉だし、ほとんど単一の言語しか話されない日本では意識することはほとんどない概念だ。
でもそのまんま誰も気にすることなく英語「公用語」化の是非に関して議論できてしまう。
なぜ議論できてしまうのか?名前があるからだよね。

名前のはたらき

ものごとに付けられた名前の働きというものは古くから議論されているし、今でも考えてみるとなかなか面白い。
言語学の大家ソシュールは名前を「シニフィアン」と呼び、その性質について、内容を表す「シニフィエ」との関係について様々指摘した。
中でも大事なのが次の指摘じゃぁないか。

・言葉の第一原理
音素列と意味の関係は恣意的である。

つまり単語の音と意味の関係に必然性はないということ。
「りんご」という単語は、あの赤くて丸くて甘いバラ科の果実のことを指すけれども別に音は「りんご」でなくても良かった。「みかん」でも「なし」でも。
「あした」という単語は、現在では翌日という意味で使われるけども、古語では「朝」とか「翌朝」の意味で使われている。これは、単語の音と意味の関係に必然性があるならこんな変化は許されないはずだ。
もちろん、オノマトペ(擬音語)とかブーバ/キキ効果とかこの原理に反しているように見えるけれども、それでもこの原理を完全否定することはできない。

単語の音から、その意味を決定することはできないのだ。

「造語」に隠される本当の意味

さて本題、何かに名前を付けると、その本当の意味ってのはよくわからなくなる。「造語」ってのはその効果がとっても強い。
「造語」ってのは基本的に社会的な承認がないまま、一部の集団で使われ始める。「インターネット」という言葉だって、1990年代前半なら極々一部の人たちしか知らなかったような言葉だ。そして未だにその意味が定まっているとは言えない。いくつかの単語を組み合わせた造語なら、なんとなくの意味は分かる。"Internet"なら"inter(間の) + net(網)"だから、網の間の何かだろうと想像はつく。でも、そういう類推までしかできないから、正確な意味はよく分からないままになる。

正確な意味を調べるコストは大きいし、さらに単語を正しく使用するのもとても大変。だから、曖昧なまま使われ、広まっていくわけ。しかも新しくできた単語なら人々の間の認識の違いもとても大きい。

こうなるとコミュニケーションに大きな障害が生じる。伝えるべきことが伝わらない、誤解される、云々。
しかし、それならまだいい方だ。さらに重大なのは、新たな造語が、持つ意味を隠蔽する力を意図して作られること。考えてみれば、メディアで流布する単語にそのような傾向が見られるものが沢山あるのではないか?何だろ、聞こえのいい単語とかは怪しいな(´・ω・`)
そして、単語の意味する部分は隠したまま、その単語にまつわるイメージを付加していく。歪んだ、一面的な像が構築される。そしてその単語を聞くと、反射的にその像が思い出されるようになる。

よく考えたほうがいい。ペンは剣より強いのだから。